2008年

ーーー9/2ーーー データ消失

 本日(2008年9月2日)午前、「週刊マルタケ雑記」の記事を更新しようと作業にかかった。普段なら前の週の土曜日くらいから原稿を書くのだが、今回は展示会で忙しかったために、発行日当日までずれ込んでしまった。

 更新しようとしたのだが、どうも上手く行かない。ソフトがだだをこねた様子だった。それで、いろいろ手を尽くして作業を試みたのだが、そのうちとんでもない事態へと発展した。

 結果から言うと、OSの再インストールの際に、誤って「初期化」のモードに入ってしまい、ハードディスク内の全てのデータが消滅してしまったのである。これは言わずもがなの、大事件である。

 これまで十年近くに渡って蓄積してきた様々なファイルやデータが、跡形もなく消えてしまった。一瞬、目の前が暗くなるようなショックに襲われた。

 このホームページも絶望的であったが、かろうじて二年くらい前に取っておいたバックアップが、予備のハードディスクの中に見つかった。それを使って、最低限の更新、つまりこの文章をアップすることは出来た。

 しかし、多くの部分でデータが欠落している。もはや継続性を保ちながら維持していくことは、不可能に近い。青天の霹靂とも言うべき事態により、我がホームページは風前の灯火である。

 この先どうなるかは、まだ分からない。そこまで考える余裕が無いくらい、頭が混乱している。いずれにせよ、大幅な転換が生じることは、避けられないだろう。

 これまでご愛読頂いた皆様には、本当に申し訳ないが、これから開店休業状態になってしまう可能性もある。そうなった場合には、ご了承願いたい。

 それにしても、ワンクリックでこのようなとんでもない事態に陥ってしまう理不尽には、自らの不注意から生じたこととは言いえ、怒りとも幻滅とも失望とも、形容しがたい思いがわき起こる。

 一方で、予期せぬ一瞬の出来事で奪われたものが、人の生命や身体であったならと思うと、背中に冷たいものを感じるほど現実感があった。 



ーーー9/9ーーー 2万円の神の啓示

 パソコンのデータが消失してから、いろいろなことがあった。

 まず、地元のアップル代理店にパソコンを持ち込んだ。店員の女性エンジニアに事情を説明すると、相手は私の行った操作に致命的なものがあったと、気の毒そうな顔をした。そして、データの修復は可能かとの私の問いに対して、修復できるか否かの確認に18000円、修復できると分かったら、さらに数万円から数十万円かかると言った。しかも、どの程度修復できるかは、専用の機械を駆使しても、やってみなければ分からないと。

 私は諦めてパソコンを持ち帰った。

 ホームページに事故のことを載せたので、知り合いからメールが届いた。バックアップを取っていなかったのは迂闊だったとの指摘があった。ただ、ホームページに関しては、サーバーにアップロードしたデータがあるのだから、それを使って運用は続けられるとのアドバイスがあった。データが無くなってしまった事で、このホームページも「もはやこれまで」かと思っていた私にとって、これは有効な情報だった。幸いにも2年ほど前のデータが別のHDD残っていた。それを使ってサーバーにアクセスし、データをダウンロードして、なんとか事故の前の状態に戻すことができた。しかし、ダウンロードに際して若干の不具合があったので、完全とは言えない。将来に不安を残した形となった。

 ミクシィの日記に、データ消失事故のことを書いたら、それを見た知人の女性からコメントが入った。旦那さんがそういうことに詳しいので、直せるかも知れないとのことだった。旦那さんは温泉旅館の経営者である。こう言っては失礼だが、「まさか」と思った。しかし、過去にデータ修復を幾度もやっているとの話を聞き、お願いすることにした。ただし、「ダメでもともと」の条件付きであった。

 宅急便でHDDを送った。先方に届いた晩、電話があり、修復できそうだとの話を聞いた。私は狐につままれたような気がした。しかし、これで助かったと思った。修理費用は二万円とのことであったが、アップルに頼むよりはるかに低額で、有り難かった。

 修理の終わったHDDと、修復したデータの入ったCDが届いた。7枚のCDに納められた、修復されたファイルの数は、約47万個とのことであった。そして、各々のファイルには記号化されたタイトルしか付いていないので、一つ一つ開いて見なければ中身は分からないとの説明であった。

 47万個のファイルを、仮に一つ当たり1秒でチェックしても、130時間かかる。一日に10時間その作業をやったとすると、およそ2週間かかる計算である。これはこれで、大変なことではある。

 CDの中のデータを開いて見た。ほとんどが訳の分からない、記号の羅列のデータであった。また、パソコンのOSで使うアイコンやシンボルなども多数有った。そういうものは、私には必要ない。デジカメで撮影した画像などは、JPEGの記号がファイルに付いているので、それと分かる。とりあえずそれだけに注目してチェックを始めた。それでも、膨大な量であるが。

 ところで先日、昔からの友人と会う機会があったので、この事件の顛末を話した。

 パソコンのデータが消失した日、私はひどいショックに襲われたが、その後不思議なほど冷静な気持ちになった。全てを無くしたので、開き直ったのかも知れない。家内はパソコンに不案内な女で、「また新たにやり直せばいいじゃない」と軽く言った。私は、事態の深刻さを認識しつつも、同感だと言った。過去のことを全て葬り去って、心機一転やり直しをする。それはそれで、意味のあることだと思った。今回の事件は、そういうことを私に強いる、神の啓示ととらえて良いのではないかとも思った。

 全てを聞いて友人は言った。「お前の神の啓示とやらは、二万円でひっくり返るほど薄っぺらいものだったんだな」。
 


ーーー9/16ーーー 「木の匠たち」展の成果

 パソコンのトラブル騒ぎで掲載が遅れたが、先月末に松本で開催された「木の匠たち展」の報告を、簡単に述べてみよう。

 会場の松本蔵シック館に入った来場者の数は、およそ3000人と発表された。私は、楽器製作者と木壁画の木工家と共に、一番奥まった二階の部屋に展示をした。あまり客が入らないことを心配したが、その部屋への入りは800人ほどだったと思う。私が経験した展示会では、過去に例が無いほどの盛況だったと言える。

 具体的な成果、つまり売り上げや注文があったかと言うと、小物が数点売れただけであった。家具の場合、こういう展示会でいきなり注文を貰うというのは、なかなか難しい。今回参加した同業者で、かなり名の知れた家具作家は、「こういうイベントで買ってくれるのは、知り合いだけさ」と言っていた。また、「半年、一年後に話が舞い込んだりする。長い目で見なければね」とも。

 ビジネスの面では長い目で見るとして、私にとってこの展示会は、とても有意義なものであった。それは、他の木工家の作品を見て、話を聞いて、大いに勉強になったからである。

 会期中、持ち場を離れる事はほとんど出来なかったので、主として交流を持ったのは、同じ部屋の二人の作家だった。その二人だけでも、私にとっては十分過ぎるくらいの勉強をさせてくれた。

 どんなことがためになったのか、具体的なことは専門の領域なので、ここでは省略する。大筋で言えば、仕事の取り組み方、作品の性格付け、独自の技術、独自のアイデア、人間関係の作り方、などであった。

 さて、来客の反応であるが、熱心に見てくれた人、ほとんど全く無関心な人、そしてその中間の様々な人がいた。それは、こういう展示会では普通のことである。来客の挙動に一喜一憂しながらも、世間の人が何を感じ、何を求めているかを探るのは、精神的に疲れることではあるが、こういう機会ならではの有意義なことでもある。いろいろな客がいた一方で、作品に傷を付けたり、変にからんだりする人が居なかったのは良かった。

 このホームページを見て来てくれた人も何人かいた。これは有り難いことである。そういう方とは、以前から知り合いのような感覚で接することができるから不思議である。

 知人や友人も多数来てくれた。これも嬉しいことである。中にはわざわざ横浜から来て下さった方もおられて、恐縮した。

 地元安曇野の画家S先生にもお運びを頂いた。この会場の建物の落成記念のときに画家集団の展示会をやり、その時に出展された話などを伺った。先生は私の展示品をくまなくご覧になり、お褒めの言葉を下さった。先生には、以前いくつか家具を買って頂いたことがある。そして最後にこう言われた。「大竹さんには、作品を通じてファンがたくさんいるでしょう。わたしもその一人ですよ」。



ーーー9/23ーーー 南アルプス登山

 
9月8〜10日の二泊三日で、南アルプスを登りに行った。山は仙丈岳と甲斐駒ケ岳。北沢峠までバスで入り、そこにテントを張ってベースとし、各々の山を日帰りで往復するというスタイルである。仙丈岳に登るのは初めてのこと。そして、今まで登ったことのない3000メートル峰の山頂に立つのは、1994年の御岳山以来である。ちなみに仙丈岳を仙丈ケ岳と表記してある文献もあるが、両者入り乱れているので、どちらでも良いようである。

 同行者は昔勤めていた会社の同僚M氏。この夏に北アルプスを縦走した相棒である。氏は北アルプスで味をしめて、どうやら登山が気に入ったようである。この山行も、氏からの申し入れで計画された。

 先月中旬から連続してぐずついていた天気が心配だった。前日の天気予報で好転の兆しありと判断して、実行することにした。しかし、8日の午後に入山したときも、天気は思わしくなかった。

 9日の夜明け前にテントから顔を出すと、満点の星空であった。星に手が届きそうな感じがした。それから二日間、天気は完璧な晴れとなった。

 初日は慌てる理由も無かったので、ゆっくりと朝食をとり、他の登山者が出払った頃、6時過ぎに出発した。

 北沢峠からしばらくは樹林帯を登るが、途中から森林限界を抜けてハイマツ帯となる。展望が一気に開けた。本邦第二の高峰北岳が間近にそびえている。それから山並みをたどると、間ノ岳、塩見岳、荒川岳、赤石岳と、標高3000メートルを超える巨人たちが連なっていた。また、登って来た方角を振り返ると、翌日登る予定の甲斐駒ケ岳が、実に堂々とした姿であった。北岳の向こうには、富士山が秀麗なシルエットを見せていた。










(北岳、間ノ岳と富士山)


 


 仙丈岳の頂上に立った。360度、素晴らしい景観である。中部地方の全ての山が見えていた。この幸運に恵まれた喜びを、M氏と分かち合った。登山路ではほとんど人に会わなかったが、山頂には十数名の登山者がいた。それでも、少ない方だと思う。夏山最盛期だったら、行列ができるほどの人気コースらしい。静かな山は、それだけでも価値がある。











(仙丈岳山頂から甲斐駒ケ岳)




 帰路は、馬の背から薮沢に降りて、北沢峠まで下った。そしてテント場へ戻ったのが15時20分。今回の登山は、テント場がバスを降りてから10分くらいの所にあるので、食事も装備もちょっと贅沢をした。M氏がタープを持って来て、それをテントの上に張った。これは実に快適であった。その利点を確認するために、ちょっと雨が降って欲しいと思ったくらいであった。












(ベースキャンプ)




 M氏が、翌日の行程に不安を表明した。里へ下るバスの最終は16時である。それに間に合わないと、その日のうちに帰れない。登山を終えてから、テントを撤収する時間も見なければならない。とすると、14時までにはテント場へ戻りたい。ところが、今日のようなペースで行けば、甲斐駒ケ岳の山頂を往復するのに9時間はかかりそうである。逆算をすると、明朝5時には出発すべきである。で、3時半に起きることにした。そして、睡眠時間を十分に取るために、今日は18時に就寝することにした。

 早寝早起き、早立ち早着きは登山の鉄則であるが、これほど早く就寝するのも珍しい。M氏は、こんな時間から寝られるだろうかと言った。しかし、二人とも寝袋に入ってしばらくすると、眠りに落ちた(ようであった)。

 この早寝は、結果的にすごく良かったと思う。睡眠時間を十分に取るということは、重要である。私は普段の生活でも8時間くらい寝る。山の上で、一日がかりのきつい行動の疲れを取るには、10時間くらいは眠りたいところである。そして、早く寝るということは、過度の飲酒を避けるという意味でも有効である。酒の飲み過ぎが常にネックとなる私には、無理矢理にでも早く切り上げるシチュエーションが好ましい。

 はたして翌朝は3時半に起床。実は零時頃からうつらうつらの状態であった。でもこれは、山の上では普通である。特に年齢的なものもあるから、眠りが浅いのは仕方ないだろう。

 朝食を済ませて、4時50分にテント場を後にした。あたりはまだ真っ暗である。ヘッドランプを点してのスタートとなった。

 1時間ほど歩くうちに、明るくなった。今日も快晴である。山の朝の冷気を感じながら一歩一歩登る。実に落ち着いた、満ち足りた気持ちであった。

 仙水峠から駒津峰へ上がる。ここに至って展望は開け、眼前の駒ヶ岳の斜面に釘付けとなった。すごいボリューム感である。尾根通しの登山ルートが見えているが、険しそうである。その途上には、すでに数名の登山者の姿が見えた。












(駒ヶ岳の最後の登り)




 痩せた尾根を登って行くと、「直登ルート」と「巻き道ルート」の分かれ道となった。私は迂闊にも、その意味するところを見誤った。すぐ先の岩山を超えて行くか、巻いて行くかの、言わば小さい範囲の選択肢だと思ったのである。それでも、安全を考えて巻き道にしようと言った。ところがM氏が直登ルートに執着を見せた。それならということで、直登ルートへ進んだ。

 実はこの分岐、山頂へ至る大きな分かれ目だったのである。山頂へ直接登るルートは険しく、下山には使わないことになっている。下山に使わないということは、登りでもそこそこ危険であるということだ。その直登ルートに入ったのである。まあ、先行パーティーも見えているし、大丈夫だろうと思った。しかしそのパーティーたちも、恐らく間違えて登ってしまったのであろうことは、山頂での会話を盗み聞いて想像された。

 ところどころではあるが、確かに難しい岩場があった。ほんの僅かな高さであるが、えいっと乗り越すのに手がかり足がかりが微妙。もし下が切れ落ちていたなら、3級(岩登りの難易度を示すグレードで、「ザイルを要す」)を付けてもおかしくはない感じであった。まあ、我々二人は屈強の男性だが、かなり年配のご婦人登山者などは、冷や汗ものだったに違いない。

 岩稜の途中で小休止した。こういうことが初体験のM氏は、緊張感あふれる岩場の登りに、心を動かされた様子であった。そこで私は、ある歌曲の詩を口にした。

It is the soul,afreid of dying,that never learns to live. 

 M氏は沈黙していたので、私が伝えようとしたことが通じたかどうかは分からない。

 甲斐駒ケ岳の山頂。私は二度目の訪れだが、実に立派な、堂々とした頂上だ。昨日の仙丈岳よりもさらに凄い展望である。と言うのは、甲府盆地から諏訪に至る下界の展望も開けていたからである。そして、その仙丈岳に目をやれば、前日登ったルートが見えて、感激はひとしおである。人間はよくもこんなに歩くものだと、妙な感慨にも浸る。


 










(駒ヶ岳山頂でサンポーニャの演奏。遠景は仙丈岳)




 山頂に着いたのが9時20分。これで、今日中に帰れることは確信された。後はへまをしないように気を付けて下るだけである。












(駒ヶ岳の下り。中央に駒津峰)




 13時15分北沢峠着。バスの時刻を調べたら、予定していた最終より一本早い、15時の便に乗れる可能性が見えた。これは嬉しい発見であった。

 テント場に戻って撤収をし、北沢峠までの10分ほどの道を登り返した。これが予想通りきつかった。

 バスに乗って、終点は戸台の駐車場。そこに私とM氏の車が停めてある。仙流荘という保養施設で、ゆっくりと温泉に浸った。

 仙流荘を出て、各々の車に乗り、それぞれの帰路に着いた。信じられないような好天に恵まれた山行は幕となった。

 ところで、私ごとであるが、今回仙丈岳を登った事で、国内の3000メートル峰21座(『山と渓谷』誌2008年1月号の付録『山の便利帳』による)のうち未登頂の山は、間ノ岳、農鳥岳、塩見岳の3つを残すのみとなった。



ーーー9/30ーーー 「美しい木の椅子展」感想

長野県信濃美術館で開催されている「美しい木の椅子展」を見に行った。いくつかのコーナーに分かれて展示が有るが、お目当ては「世界の名作椅子100点」。東海大学の織田憲嗣教授が所有する1000点を超える椅子のコレクションから、著名デザイナーが設計した木製の椅子を100点選んで展示したものである。

 これまで写真でしか見た事が無かった名作椅子が、目白押しであった。それらを一つ一つ順番に見て歩くのは、実に楽しい時間であった。椅子に触れたり座ったりすることが禁じられていたのは残念だったが、いずれも貴重な品物であるから、やむを得ない事だと思う。

 全部を見ての感想は、まず加工技術の高さに驚かされた。およそ半世紀前に作られた品物であっても、どのように加工したのか首をひねるような物がいくつもあった。三次元的な寸法合わせをどのようにやったのか分からない物もあった。また、細い部材を突き合わせて接続する加工が、そこかしこで使われているのだが、それがとてもデリケートだった。これでもつのだろうかと、不安になるくらいであった。その技術が様々な作品で使われているということは、伝統的に確立したものなのであろう。

 次に、発想の豊かさに目を見はらされた。形態、構造、機能、素材の使い方などに、とても斬新で個性的なものが、数多く有った。中には極端なものも有ったが、それも嫌みは無く、むしろけなげで微笑ましい感じがした。驚くほどユニークな形態の物も有ったが、それらも奇をてらったような感じではなく、健全な探究心の結果のようにも見えた。

 上記二点を兼ね備えた品物も多く、それらは大いに存在感があった。そうではない、地味な印象の椅子もあったが、それはそれで、きっちりと一つの方向に向いているように感じられた。総じて、実に楽しく、魅力的な椅子たちであった。椅子を設計し、製作した人たちの、椅子に対する愛情や情熱といったものが伝わって来た。

 名作椅子と言われている品物であるから、特別に秀逸であることは当然かも知れない。欧米人が日常で使っている椅子が、全てこのような物だとは言えないだろう。しかしこの100脚を見ただけでも、欧米の椅子の文化の間口の広さ、奥の深さが感じられた。



 
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